ごった

色々書きます

 カンヌ2019での水原希子さんのドレスがちょっと気になった。ディオールのアンバサダーだからディオールのクチュールだったけど、どうやら一つ前のコレクション(2018-19aw)からのもののようだ。f:id:hanashimako:20190516174626j:imageアンバサダーだからいつでも最新のものを身につけると私は思っていたわけだ。メットガラキャンプでのCara Delevingne は2019春夏のクチュールだったし。f:id:hanashimako:20190516201013p:image

 

 ファッション業界の目まぐるしさはどうかなーと思っている。毎回50とかルックを作ってすぐ着られなくなるのじゃあね。消費が激しいし、あっけないしつまらないし悲しいわね。やっぱりあのコレクションが特に好きとかあるしね。だから着ていること自体はいいと思う。だけど広告塔であるアンバサダーが着ている理由は何なのか、私には分からないから不思議に思った。クチュールは時間が必要だからだろうか。

 

追記 翌日見てみるとBella Hadid は2018春夏を着ており、最新とは限らないのだと分かった。f:id:hanashimako:20190517221104j:image

 メットガラを見て思ったのだけれど、頭を覆うものが流行っているのかな。少し前にスイムキャップ風が流行っているという記事を見かけたから目につきやすかっただけかもしれない。だけど私の知っているだけでも最近のコレクションにいくつかある。

f:id:hanashimako:20190507181416p:image2018-19秋冬オートクチュールのジバンシイ(上)とヴァレンティノ

f:id:hanashimako:20190507181424p:image2019春夏オートクチュールアルマーニ プリヴェ(左上)とディオール(左下)とシャネル

 ロングヘアではなくバズカットやショートカットのモデルさんも多いし、頭まわりはタイトな方へ向かっているのかしら。

 自分のために生きるほど自分に価値を感じない。人のために生きるのはおこがましい。自分を支えられないものが何をいうか。

 死ぬことは簡単で、でも多分今の私は死を避けて生きることを考えている。生きたいわけじゃないけど。このまま何もせずやり遂げないのでは永遠に死ねないのではないかと思う。生死は選べないものだろうけど。

 やりたいこともしたいこともない。でも世間の中にはやるべき仕事が溢れていて、それを担う人が足りなくて、だから私はただそれを担えばよいのだとも知っている。ただ私は世間と離れ過ぎていて、世間との接触の方法を失っている。

 考えるばかりでなく体を動かせばよいのにと思う。

 こういう事柄は身近な人には言いにくい。でも私には身近な人しかいない。カウンセラーの先生たちもいるが、今は会えないし、それに親しみを感じすぎて、私はいい子に見られたいと思ってしまう。その一方で心配されたいとも思っている。多分見透かされているのだろうけど。

 

こんなものはダメな自分を肯定するための言い訳だな。

 時代の終わりに不安を感じる。終わるから不安なのだろうか。

  この国の場合、万世一系のところに権威の源があるのだと思う。王朝交代を経験してきた他の立憲君主制国家と違って難しいのはこの部分だと思う。女系になっては源が揺らぎ、この国の超越的存在の根本が崩れる。そして多分現代であっても国の足元が崩れる。

 万世一系を揺るがせられないのに、現代の価値観や状況において大変厳しい。一代限りの女性は大丈夫なわけだけど、多分現代では尾を引いて混乱を招くことに繋がる気がする。

  継承問題が出るたびに嫌な思いがする。いつも解決の糸口は見つからないまま進んできている。権威の存在根本を否定するような案は論外だと思うが、何もかも議論が待たれるで終わり。こうして個人レベルも国家レベルも衰弱してしまう気がする。

 

 まあみなさんが何を国と思うか、必要とするか分からないし、どこの国でも王朝の交代、世代交代は困難を伴うものである。

 

 あまり何を省みるでなく、もうすぐ退位と即位と改元を迎える。テレビ屋がただ設けている気がする。終わると明確に分かっていて一時代が終焉していく。その時が来れば、何か起こるだろうか。

 

 本当文章にならない。ウダウダ思うばかり。肥満した精神が気持ち悪い。研ぎ澄ませられない。

 

 

 ブランドのコレクションや広告を気にするようになってから思うのは、ファッション誌に載っている服はブランドのオススメアイテムそのままなのではないかということである。雑誌に載っているのは大概オープニングルック、クロージングルック、イットモデル着用ルックのような気がする。

続きを読む

 罪悪感みたいなものは底の方にこびりついてる。勉強しておらず働いておらずさりとて家中のものに尽くしているわけでもないから。ただただこう生きているのは、モノや金を消費し二酸化炭素を排出し社会の悪い方を担うばかりで嫌だと思う。しかあれども線路に飛び込むわけには行かないのは自明である。人の迷惑になるのは良くないと分かる。死ぬことは避けられないことだが、迷惑にならぬよう終わるには生きるしかない。

 とかなんとかお風呂を洗いながら考えていた。