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TomFord ss19。全然詳しくないけど、NYのセクシーさ、かっこよさがトムフォードにはある感じがする。今回のコレクションも黒の色合いがゴージャスで、シルエットや素材のタイトさ・滑らかさのバランスが絶妙だった。シンプルに頭を覆ったスタイルが華やかさをより作り出していた気がする。
オープニングはまたもやFranSummers!彼女は超売れっ子だなあ。 ステキなモデルがいると思ったら、彼女たちはどうやらFranと同じエージェンシーの模様。Chiharuさんも同じ所属なのね。
(https://instagram.com/p/BnXfzrUBd1f/)
歩きづらそうな子や伏し目がちな子がいるなか、Kaiaが堂々としていて感心した。二世でスタイル抜群で、でもやっぱりそれだけじゃないんだなあ。エンディングのGigiもなんだか貫禄があった。NY代表って感じ。
お気に入りのルックはこれ。
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最近笑っていないと言われた。そもそも表情が出ていなくて、元気なさそうで不機嫌そうに見えるらしい。そしてそれは母だけでなく妹、あまつさえ祖母にまで感じられているらしく、更にここのところ暫く続いていると指摘された。
毎日がつまらない、無意味の自分、非生産的な生産年齢の自分、穀潰しの己、そりゃ楽しんで言いわけないと思う。ただ代謝しているだけだもの。
でもそれを表に出して周囲を不愉快にしてしまうのはいかんことだ。そこまで酷い態度をとっているとは気づいていなかった。
母に毎日がもうちょっと楽しくなるようになるといいね、と言われた。私はそばから見た人にそう思われるような毎日しか過ごせていないのか。それは一体どうすればいいんだろう。この10年の中で一番マシな時期が今だと、アップデートされた日々の中にいると思っているのに。
今がダメだってことはずっと分かっているまま、何も変わらないダメな今を更新し続けてここにいる。勘弁してほしい。こんな自分を許容できるはずない。
でもこんなことを耽溺するほどにはきっと考えも感じてもいない。表面的なアッピール。
よくわからない。
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今晩も20分で書いてみよう。
半分青いをなぜ毎日見ているのだろう。
カンちゃんはフィギュアスケートをやりたい訳じゃないんやないの?と思ったりする。カンちゃんは真央ちゃんの絵を描いているし、少し前には漫画を熱心に読んでいたし、スズメが一緒に絵を描いてあげることで十分ええんやないの。何も親のお金を資金にして作ったばかりの店を離れて東京へ行かなくても、カンちゃんの為に出来ることはある気がする。カンちゃんが半年くらいで失った人・環境の数や重さは大きいのに、それに構わず進んでいくことがこわく感じられる。こう書いているけど私は全然カンちゃんのファンではない。
自分の時間の使い方が無駄だと自覚することが多いにもかかわらず、何も変えることが出来ないでいる。自分のために使える時間なのに、自分のために苦労や努力して何かを実らせようと出来ない。いつまでもモラトリアムの内に在ろうとしている。寄生虫だ。ウィンウィンじゃない寄生虫。
いつまでも無限に可能性があり飛翔できる時間があるのではない。私はもう精神的な鋭さを失っており、ここからただ下降していく。若い、というだけで何か新鋭で先進で価値のあるように言われる、そんな時期を無為に過ごす。
何をやっているんだろう。毎日振り返って日記に書くことは同じ。明日も変わらない。やりたい、やらなきゃは意識されるがそこからの方法が肉体と繋がらない。こんな子じゃなかった。
孤独と沈黙は嫌いじゃないが1人でいると言葉が出てこなくなる。一緒の空間にいて話しかけられているのに、自分は貝の内側に、遠く隔たったところへ行ってしまう。意識の沈下が起こる。
推敲はしません!寝ます!
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一日のなかで自分の内側であったことを全て外に出しているわけではないから、やはり書かないと内定経験も忘却の彼方へ行ってしまうため、時間を区切って書き残しておこう。今日は20分で書く。
とはいえ何を考えたかな。
読んでいる本のなかで初めて知った単語があった。「みそなはす」という。辞書によれば「見る」の尊敬の言い方らしく、ご覧になるということらしい。漢字もあるんだけど変換できないな。糸言糸と書いた下に肉と書くらしい。結構糸言糸の塊は漢字で見るけど、冠として名前があるのだろうか。
ちなみに読んでいるのは「教養としての宗教入門」で、今月買ったものだ。宗教の比較が概観的に、特定の信仰の立場からではなくされている。面白い。
しかしいつまで私は入門系の本を読み続けているんだろうか。もう少し深化したい。
短期のバイトを探している。でも、人の中に入って上手くこなせる気がしない。今人の質問に対して真っ直ぐ答えられないことが気になっているからだ。それにノウハウを習得出来ない気がする。
20分は早い。終わり!
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Spotifyでラフマニノフやチャイコフスキー、ブラームス、ドヴォルザークをかけている。そうして倉橋由美子を読んでいる。なんと暗澹たる心持ちになることだろう。
あの初期の倉橋由美子の作品にはフランス文学の姿がにほひたっていて、一瞬私はサルトルを読んでいるようだと思った。実際倉橋由美子はサルトルを卒業論文に取り上げたようだった。私の作風への影響の感覚は当たっていたようだが、仏文学はサルトルとジュネしか読んだことがないうえ、そもそも読んでいる文学作品が圧倒的に少ないからなんとなく連想したのだと思う。
しかしあんなにも仏風で書かれていることに驚いた。あの粘液のような、生理的な、肉体的な、圧迫されるような、嫌悪のような、正体の見えないイマージュでしかないような、私にはこういう単語の羅列でしか表現出来ない世界をどうやって構成したのだろうか。影響を受けて研究すれば作れるものだろうか?
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10年前の今頃不登校になった。
それから行くべき学校が無くなって、つまり学生という身分を失って、引きこもりみたいなものになった。当時はあまり引きこもりって言葉を自分に使わなかった。療養という面もあったし一応カウンセリングを受けに月二回は必ず外出していたから。ニートだね。
今は半引きこもり兼半不登校みたいな感じ。通信制大学に通い始めて数年たつけど、あまり勉学に励んでいないしバイトもしていない。学生身分を利用したニートだとぶっちゃけ思う。
10年経ってなんか、そうだなあ、マシになったなあとも残念だなあとも感じる。
10年の最初の辺りの記憶はおぼろげにしかないけど、色々あった。
まず一つは、多分2年目辺りが特に酷かったと思うけど、ご飯が食べられなくなった。食べても口に指を入れて吐かないといけなかった。その割には体重は落ちなかった。一回家の廊下で倒れて、母が駆け寄ってきて、ああ食べなくちゃいけないなと思った。祖父母が買ってきてくれたハーゲンダッツのグリーンティーが本当に美味しかった。食べられるようになっても1年くらいお肉は食べられなかった。
過去を自分に統合しよう書き始めたけど、15分経ったからまた書く。