ごった

色々書きます

 この週末は曾祖母の納骨だ。

 災害級の暑さのせいもあって、あまりお墓や庭をきれいにできなかった。あまりお線香も上げてあげられなかった。心がなくって悲しくなってしまう。

 曾祖母と祖父を知る人は、二人は仲が良かったから曾祖母は行ってもさみしくないねとかいう。じゃあ置いて行かれるこっちはどうなるんだ、と思う。それにもうただの骨、有機物だか無機物だか知らんが骨でしかないぢやないか、とも思う。でも通夜の時にスタッフさんが「生きてるものが大事ですから(灯明は任せて、今夜はできるだけゆっくり休んでください)」というのを聞いて、ばか誰のために集まってると思ってるんだ、と内心強く思ったのもまだ心に残っている。

 死ぬ直前にあえて、その時曾祖母の目も耳もはっきりしていた。死ぬのを分からせちゃいけないと思った。なのに皆さいごみたいなことを曾祖母に伝えていった。分かんねえや。

 病院で体を拭いたが、太いあばらがういて、生っぽい枯れ木みたいだった。祖父の湯灌のときほど恐ろしくはなかった。曾祖母の死の方が曾祖母の生の連続性の上にあるように感じられたのかもしれない。だけど、どっちも顔を蔽われたらモノみたいになってしまう。

 

 いなくなってしまいたいが、それを言えば、母は悲しむから口にしてはならない。昨日実際確認した。私も例えば今いなくなったりして、すると誰かが骨を拾ったらその人は悲しいだろうと想像する。非生産的でもあるし、考えるのはいかんと分かる。これが絆しだろうか?

 こんなクズみたいな毎日を過ごして絶対ろくな死に方を私しない。