ごった

色々書きます

 もうすぐ祖父の四十九日がくる。
 葬儀に参加するのは今回が初めてだった。身近な人の死もご遺体を見たことも、有難いことにこれまで経験が無かった。だから葬送の儀自体がなかなかショッキングだった。

 顔を蔽った布というのは大変重要な働きをしていると痛感した。蔽われているときは、祖父の方を向けたし家族と会話を交わすことが出来た。だけど覆いを外されると直視できなくなって、急に熱くなったりバクバクと心拍の上がったりして体に緊張がうまれた。見るなの禁を破ってすくんだ人のようだ。

 ボンヤリした頭に念仏と線香の匂い。そこにシンバルみたいな鳴り物が響いて、宗教効果絶大だなとその時妙に醒めた考えが浮かんだ。

 念仏を聞いているときには、この不浄な世界を離れて祖父が浄土に往けるのならば、それはそれで良いのかもしれないと思えた。また、人は必ず死ぬのならば、こうして送り出すこともまた必ずせねばならない、きっと私も誰かにそうしてもらう筈だからという思いもした。

 だけど、お骨を拾って、祭壇にある骨壺を見て今思うのは、死んでしまったら終わりなのだということだ。遺体をみたときにたましい・意識が離れたことを確認した。血の気の失せて硬直した肉体はわずかな時間で滅んで白骨になった。日がたつにつれて思い起こして泣くことは減って、遺産分割の手続きも母が手際よく済ませていって、どんどん祖父の痕跡は薄れていっている。納骨を済ませたら肉体の残滓も家から離れてしまう。なにか思念がどこかにあるようにはなんだかちっとも思えないし、あの世というのも念仏に触れなきゃわからない。確かにいないという実感が強く確かになっていくばかりだ。


 近いうちに祖父の命はつきると薄々分かっていた。無くなる数日前に、体位交換をしてもらう拍子に目を開けるのを見た。だけど祖父の目は何も捉えていなかった。陳腐な感じ方だけどそういう状態だった。開眼は体の反射であって、意識の覚醒ではなかった。
 命の終わりが近いと分かっても、ではそれは何時なのか。いつその瞬間は訪れるのか。今振り返ってみると、祖父の死んでしまった今現在よりも、祖父の生きていて死を待つ時間のほうがずっと絶望的だった。不思議なことである。