ごった

色々書きます

 先月、読めないけど図書館へ借りに行った。これも積ん読に当てはまるのだろうか?

 須賀敦子が日本文学を伊訳したアンソロジーがあるそうだ。それには教科書に載るような代表作ではなく、須賀さんの美意識によった作品を厳選してあるとか。また当時のイタリアでは英語からの二重翻訳が多かったため、日本語からの直接の翻訳本は貴重な事蹟だったらしい。

 そしてそのアンソロジーを基にして、この本は、作品の原典と須賀さんの作品解説を抄録してある。異なる編者のふるいに二回かけられた作品群なわけだ。だれかの私撰集からまた私撰集をつくるような感じなのかな。そんな例はあるのかな。

 ふだん誰かのオススメラインナップを聞いてもさして興味は湧かないし、この本だって目次だけならそうかもしれない。だけどなぜか奇妙な興味がこの本には湧く。作品がさまざまな企図で配置し直され、いろんな形で現れなおしていることが不思議でならない。それに基となったアンソロジーがイタリア人の日本文学観に少なからず影響を与えているであろうことも。

 つまり河出文庫の出版の企画含めおもしろいってコト!?

 昭和二十年の三島から川端への手紙に『雪国』を古本で求めたとあった。本人に直接言うなんてと一瞬思う。だけど状況もあるし書籍は今よりずっと貴重なものだったと思い直した。当時の出版事情を知らないけど、貸本屋もあっただろう。だから、やはり手元に置くというのはそれだけ求めているというか割いているということの表現なんだと勝手に納得した。

 ツイッターで話題になっていたから一冊借りた。恥ずかしいことに今まで読んだことがなかった。ショートショートと耳にしてもなんぞやという状態だったのである。

 どの話も「ノックの音がした」から始まる。多くが日常の話なだけに、部屋や雑貨などの周辺のイメージに私と作品とで時代のズレがある。それは当たり前なはずなのに、そんな段差を感じるとは思っていなかったのか、読んだ映像を修整する度にすこし驚きがある。あとがきを読むと作品は風俗描写から古びるとあった。やはりそうなのか。

 

 しかし無知を告白するのは、こんな誰も見ていないところでも嫌なものだ。嫌なことって案外書けないものだと最近よく思う。嫌なことは見えないようにできてるんだろうな。気づいたらもう戻れないけど。でも頭の中で霧散していく感じもあるような。どっちやねん。だから自傷して忘れてしまうその前に(今はそんなにしていないけど)、自分の嫌だと感じることを言語化しなくちゃいけない。目をそらしてしまうものを見つめて気づかないといけない。何事も忘れる前に留めておかないといけない。でも書くことで他を捨てて、書いたことしか思い出せなくなっている気する。困った困った。

 

 図書館への行きしなに猫じゃらしの生えて揺れているのを見かけた。祖母の家にいた猫FとSにもう持って行ってやることは無い。帰りしなにはチェックのシャツにチノパンを合わせて帽子をかぶった男の人の後ろ姿を見た。父と祖父の間くらいの体型をしていた。歩く祖父をもう見ることはないし、きっと父もそのうちいなくなってしまうんだろう。高校生が友達と帰路にあって笑い声を上げたり、キャッチボールをしたりしていた。知らないうちにコスモスは私の背より高くなっていた。......こういう記憶の映像を書いて作り上げている。必要ないのに。まだ緊急事態宣言下だったとか、貸し出しは予約しないと出来なかったとか、そういう事実を書いた方がいいような気もする。いいって何だとも思うけど。